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幼い頃の性被害の記憶。管理職を務め上げたワーキングマザー。

元管理職 / 60 才                                   


偶然にも60才最後の日にデッサンにきてくださった彼女。

60才とは思えない、

ほどよく筋肉のあるしゃんとした細身の体と、

これまでの経験と知性あふれるキレイなお顔立ち、

ピカピカした笑顔がとても印象的です。


何年も前から着てるという

カラフルなチェッカー柄のコートを羽織って、

マスカラはグリーン。

昔からおしゃれが大好きなの!という彼女は

はっきりしたカラフルな色がとてもよく似合う。


きっとおしゃれなお母さんの影響かな、

子どものころに、下北沢の布屋さんで選んだ洋梨柄の布で

お母さんが丁寧にワンピースを作ってくれたと話してくれました。

今回の絵にもこっそり洋梨風の植物を忍ばせています。


 

ジャニーズ事務所の少年への性加害のニュースをきっかけに、おぼろげな記憶が浮き上がってきた。

私も小さいころ性的な被害を受けたことがあるかもしれない…。


約40年保育の現場で働いてきて、7年の園長経験もある。

仕事柄、性的虐待についての講習を受けたり、被害を受けた子どもを保護したこともある。

でもこういった被害は受けた人にしか、本当の気持ちはわからないだろうなと思っていた。

それをまさか自分が受けていたなんて。


通勤電車から見える幼いころ遊んでいた公園を、

なんだかいつも「見たくない」そんなふうに感じていた。理由はわからなかったけど、だんだん記憶の点と点が線につながってきた。



性被害を受けた、幼い記憶。


幼稚園児のころ、一人で公園で遊んでいたとき、

近くのお店で働いていたお兄さんが何度か一緒に遊んでくれた。


「いいお兄さん」と思っていたら、ある日「ちょっとおいで」と言われて「イヤなこと」をされた。

幼心になんでこの人こんなことするんだろう、いけないことな気がする、と思って母に話したら、母はその話を真剣に受け止めてくれて、怒っているように見えた。

そしてすぐに母は出かけて行った。

多分、その男が働いている店に抗議しに行ったんだと思う。


その後公園に行っても、もうあのお兄さんに会うことはなかった。一緒に遊んでくれる人、いなくなったなあと思っていた。



なぜか体が男性を受けつけない。


その後、大人になってからも、私には違和感がある。

体に異物が入ってくることに、極端に抵抗があるのだ。

セックスはもちろん、耳鼻科や婦人科の検査も、体が受け付けなかった。

結婚してからも子どもを授かるまでに何年もかかった。なぜかは全くわからなかった。


男性が近くに寄ってくることにも抵抗がある。

結婚前に付き合った男性は何人かいたし、彼氏と旅行に出かけたこともある。

でも行為をする段になると、拒絶が起きる。


相手のことはキライじゃないけど、心と体が受け付けない。

なにか「とてもいけないこと」をしているような気がするのだ。かわいがって育ててくれた両親に後ろめたい気持ちもあった。



両親の愛情を一身にうけた子供時代。


父と母と私の3人暮らし。

どこにいくにも3人一緒にいるのが当たり前だった。

両親は仲が良く、朝と晩は必ず3人揃って食卓を囲んだ。


父は中学を卒業後、東京に出て靴職人として弟子入りし、その工房のお嬢さんに恋をした。それが母だった。

父は子煩悩で、私のおねしょを替えてくれたり、本を読んだりしてくれた。中学生になっても何の疑いもなく父とお風呂に入っていたほど。


母は肝っ玉の座ったおおらかな人で、おしゃれな人だった。私はよく母が縫ったワンピースを着せてもらっていた。


一人っ子だからと、両親は私にいろんな習い事をさせて、人と関われるようにしてくれた。

でも一人っ子だからといって、私のために特別におやつを残してくれるようなことはなかった。

残ってると思って楽しみにしていたケーキが、学校から帰ったら母が食べてしまっていて残念な思いをしたことが幾度となくある。

…今思うとあえてそうしてくれたのかもしれない。



ワーキングマザーとして園長を7年。


保育士としてのキャリアがスタートしたのは、短大を出て就職浪人したところからだった。

内定していた幼稚園から、卒業の数日前に先方の都合での内定取り消しの連絡があったのだ。

愕然としたけど、仕方がないのでアルバイトや、私立保育園で働き、子どもに関わる仕事をしていた。


その間には、いわゆるベビーホテルのような24時間子どもを預けられる託児所でも働いた。

そこは、夜の仕事をしながらシングルマザーとして子供を育てている女性たちが多く利用していて、ママがドレス姿で夜中の2時、3時にお迎えに来るような託児所だった。

そのまま迎えが来ない子も目にした。

その子たちも、もう今頃40才くらいになってるのかなと思いを馳せる。


卒業して3年後に、公立の保育園の試験に受かり、若いうちから新しい保育園の立ち上げにもたくさん関わることができた。

そこでキャリアを積むうち、組織を変えるには上に立つ必要があると考えて20年目には昇格試験を受けた。副園長を9年経験したのち、園長も7年務めた。



家族に支えがあってこそのキャリア。


ここまで来られたのは、両親や夫、子どもたちの理解と協力があってこそだと思う。


24才で結婚した夫とはお見合いで知り合った。

大好き!というわけではなかったけど、プロポーズされて結婚した。

結婚したら専業主婦になるのが一般的な時代、仕事を続けてもいいと言ってくれたのも決め手だった。


夫は付き合ってからも、手を繋いだだけで、結婚式の夜まで何もしてこなかった。

セックスにどうしても抵抗があってなかなかうまくいかない中で、夫は何年もただ気長に待ってくれた。

仕事が忙しくて夕飯のおかずが一品でも、「作ってくれるだけでありがたい」と何でも文句を言わず残さず食べた。


当時は育休が1年間。子どもの1才の誕生日当日から仕事復帰だった。

子どもを預ける保育園は激戦ですぐには入れず、夫も仕事で家を空けることが多い中、両親には本当にたくさん助けてもらった。


それでも、具合の悪い我が子を両親に預けて、自分は他の子のお世話をしていることに強い矛盾を感じて、辞めたいと言ったことがある。


それを聞いた先輩は「辞めるのはいつでも辞められる。協力してくれる人たちがいるんだからもう少し続けてみたら?」と言ってくれた。

そのおかげでこうやって今も続けられている。

園長になってからも、職員には、周りのサポートがあることに感謝して助け合う前提で、自分の子どもを優先していいと伝えている。



当たり前じゃない平凡な日々を大切に。


母の働く姿を当たり前のように見てきた娘と息子は、今は国内外でそれぞれの生活をしている。

両親は90代になって少し認知が入っているけど、2人仲良く暮らしている。

そして私は定年を過ぎた今も相変わらず働きながら夫と暮らしている。

特に今以上を望む気持ちはない。

今日も夕焼けが綺麗だなあと思ったり、

窓から見える畑のキャベツの成長を見守ったり、

そんな平々凡々とした毎日が一番幸せだなあと感じる。


もしかしたら明日地震が来るかもしれないし、

急に車が突っ込んでくるかもしれない。

当たり前じゃない一日一日に感謝して、やりたいことは言い訳せずにやれるような私でいたいと思う。



 


まだまだワーキングマザーが少なかった時代、

キャリアを積んで組織のリーダーとして働くのは

想像するだけでも大変...!ですが、

全力で生きてきたからこその素敵な笑顔なんだと思います。


ほとんど話したことがないという

幼い頃の性被害のことも話してくださってありがとうございました。

きっと似た経験をされた方の共感につながると思います。

長年封印されていた記憶が蘇ったということは

もう受け取れるタイミングになったということなのかもしれませんね。

これからもさらに自分らしくなっていかれると思います。

自分を喜ばせながら一日一日を送ってくださいね。




インタビュー・ライティング/mossco

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